A Life With Adult ADHD

2014年にADHD持ちであることを確信し、2017年に自身のサイコパス属性に気が付いた一人会社IT社長のブログ

快適に人生をやり過ごすために。【皆さまのADHDブログ

日本とアメリカのADHD関連情報

アメリカのADHD関連情報を読んでいると、それがまさに自分に向けた的確なアドバイスであったり、どうも自分のことを書いているようにしか思えなかったりで、やはり自分はADHDなのだと思い知った次第である。

今までは「そうはいっても素人の自己判断だし、何より今は表面上は大した葛藤もなく暮らしているし、ADHDといっても軽症というかいわゆるボーダー程度ではないか」という疑いがあった。その疑いもキレイに晴れたようだ。どうやら立派な?ADHDであることに間違いない。

それにしても、アメリカのADHD情報は充実している印象を受ける。内容も例えば「ADHDの子に上手く算数を教える方法」など極めて実践的であり役に立つ。一方日本では、少なくともgoogleでざっと調べた限りは、大した情報がないのが現実のようである。

恐らくは欧米で生活する上では「自我の確立」ということが自明な前提となるため、その自我の活動ひいては社会的活動に障害をもたらすADHDというのは、日本と比べて「外から介入すべき事象」になりやすいのではないか。

言い換えれば、個人主義社会であるがゆえに、共通点のある変な「個性」が複数観察された時に、それを分類し、原因を明らかにしようという動きが、日本よりも早いのではないか。また、ADD/ADHDの場合は、知的でクリエイティブなADHD者が珍しくないため、当事者が介入することで、情報の展開が進んでいるのではないか。

(上手く書けてる気がしない・・・)

しかるに日本ではどうか。

変な個性があったとき、まずは「しつけがなっとらん」となり「 親の顔が見たい 」となるのではないか。

そして集団においては「いじめ」や「村八分」という扱いとなるのではないか。

ADHD者は「自分が他とは違う」という強烈な違和感に囚われがちである。そして内なるADHDというけったいな「個性」と向き合って生きていかねばならない。

どうも日本では「個性」というものがもてはやされたりもするのだが、実際のところ世間で「個性的」であるということは、極めて生きにくいことなのである。

日本のADHD者は、どうやら二重に生きにくいのかもしれない。アメリカの親切なADHDサイトを読んでいると、そんなことを思ったりもするのだ。

以上、ADHD自分語り乙。(そろそろ別のことも書きたいな・・・)