A Life With Adult ADHD

2014年にADHD持ちであることを確信し、2017年に自身のサイコパス属性に気が付いた一人会社IT社長のブログ

快適に人生をやり過ごすために。【皆さまのADHDブログ

40にして惑わず?

ADHD一人語り乙。

どうやら、自分はADHDだと確信しつつ、まだ完全に受け入れるには時間がかかりそうな雰囲気である。

繰り返しになってしまうが、きっかけはアスペの方の日記だった。

ペンギン日記

ただごとならぬ親近感を抱いた。しかし、どう考えても自分はアスペではない。自閉症でもない。この人の苦悩は良く理解できるが、自己分析はほとんど理解できないのである。

人にはいろいろあるってことだな。と思いながら調べているうちにADHDというキーワードにぶち当たり、自己診断、情報収集した結果、確信したのだ。「オレ、ADHDだ」と。

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アスペもそうらしいのだが、ADHDも(自分の場合は小学校高学年辺りから)自分と周りとの間に違和感を感じ始める。

「自分」という存在に対して疑念を感じ始めるのだ。

「自分」って何だろう。

ペンギン日記の方も哲学・宗教・心理学に吸い寄せられているのが面白い。

「自分探し」という言葉が流行ったこともある。この問い自体はありふれたものだ。若い頃、誰しも一度は問うのではないか。

しかし、アスペやADHDの人の「自分」に対する違和感は、健常者の人よりも深く、混乱している。

「自分が周りと違う」ことから「周りが普通で、自分はオカシイ」という強迫観念に囚われる。

「普通」の視点から自分を見直し「普通」になろうとする。「普通」なぞ、存在しないのに。

そして、哲学やら宗教やら心理学に吸い寄せられる。

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わたしも禅に強い親近感を持っている。

でも、どうやらアスペの方とは禅に引き寄せられる理由は全く異なる。

普通、坐禅をするというのは、

  1. 感情や欲望といった「外界に向かって行く心の動き」をストップさせて自分自身に向かわせ、
  2. 「他人の視線から見た社会的存在としての私」=肩書き・地位・名誉を捨て、
  3. そして、本来の自己を取り戻して"心"と"命"の洗濯をする、

ものです。

しかし、始めからそんなことをする必要のない私の場合は、頭の中の誰かさんに思考停止命令を掛けて、お喋りを止めさせる修行をしていたことになります。そもそも、何を見ても自分しか見えず・何を喋っても自分のことしか言わない「自閉」の私にとって、坐禅はまさにお手の物です。始終頭の中でゴチャゴチャと喋りつづける「もう一人の私」の方にいつも注意が向かっているので、私にはピッタリだったのです。

(ペンギン日記 「禅と「自閉症」(自閉症の言語世界)」より)

最後の文章はあまり理解できない。

わたしの場合は、禅とは身体の方から自分を捉えなおすという試みだった。

(普遍的な説明かどうかは分からないが)ADHD者の脳内の状態は、花火大会に例えられると思う。(もっとマシな例えをいずれ思いつくだろうと期待したい)

脳内に、ポーン、ポーンと、ランダムなタイミングで閃きが発生し、常に注意がそらされる。

じっとしていることができない。

ヒドイでしょ?

脳が先行するとロクなことがないと思い知っているのだ。

坐禅をすると、その花火を客観視できるのである。

脳の衝動的な活動を押さえて、身体の方からプレッシャーを掛ける。

わたしのADHDにとって、禅はそんな形で有効に働いたのである。

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(えーと、今子供たちが見ている「LIFE」が面白いから、一旦終了してオレも見よう)←これもADHD的な行動だったりして。