A Life With Adult ADHD

2014年にADHD持ちであることを確信し、2017年に自身のサイコパス属性に気が付いた一人会社IT社長のブログ

快適に人生をやり過ごすために。【皆さまのADHDブログ

仕事の出来る人出来ない人

「仕事の出来ない人 」という記事を書いてみて、結局仕事が出来るとか出来ないとか、そんな単純な話じゃないよな。という結論に至った。

仕事が出来る人でも「コイツとは二度と仕事はしたくない」という人もいれば、多少仕事が出来なくても「ぜひもう一度この人と仕事をしたい」という人もいる。

そういうことである。

必ずしも「仕事が出来る人」=「コイツとは二度と仕事したくない」という図式ではないと思う。「仕事が出来て、かつ人格者」とか「仕事が出来て、かつ人間的に魅力的」という人もいなくはない。当然「多少仕事が出来ない人」=「もう一度この人と仕事をしたい」ということもない。

「仕事が出来る人/出来ない人」という二元論ではないのだ。いろんな人がいて、仕事は回っている。

80:20の法則という言葉がある。「上位2割の優秀な社員が会社の利益の8割を出している」などと言われるアレだ。実際のところどれほど正しいのかは知らないが、何となく納得してしまう数字である。だったら、残りの8割の社員を削って行けば、儲けが増えるかといえば、そんな訳にも行かない。残りの8割の社員が、地味な仕事をして会社を支えているわけだから。

「儲け」とか「仕事の出来る出来ない」とかを軸に割り切ると、世界は単純に見えるのである。

しかし、その世界観は、脆弱である。

学歴が高い人がよい。低い人はダメだ。

仕事が出来る人がよい。出来ない人はダメだ。

年収が高い人はよい。低い人はダメだ。

そんな世界観で生きている人は、往々にして他人に対して非寛容であり、傲慢であり、攻撃的であり、自信過剰である。あるいは、卑屈であり、自信がなく、自虐的である。

学歴も仕事も金も、現世利益と強固に結びついた、新興宗教みたいなもんだと思う。人を極端な方向に歪めてしまう可能性があるのだ。

仕事の出来る人が、他人を厳しく叱責したり、あざ笑うような場に出くわすことがある。

脇で「これは完全にパワハラ・モラハラですな」などと思いながら聞く。当然、気分のいいものではない。池上彰氏のエッセーで「官僚にインタビューしていて『何でこの人はこれほど偉そうにしているんだろう』と思わされた人はやっぱりいずれ消えていくし、腰の低い人当たりのよい人が、気が付いたら事務次官になってたりする」という記述があった。因果応報ではないが、自分の振る舞いは、いずれ自分に跳ね返ってくるものだ。と思う。

あざ笑われた方に「それにしても、あの言い方は厳し過ぎですよね」と後で同情してみたら「いや。わたしが悪いんです。あの人が正しいんです。育ててもらってるようなもんです。あの人だって、いいところはあるんです」といった反応が返ってくることがある。「あー。この人、弱いんだな。洗脳されやすいんだろうな」と思わされる。

言葉の暴力とはいえ、暴力は暴力である。

ファックはファックであり、ボートはボートである。

オレは今、理不尽な暴力を受けている。確かにあっちの指摘は正しいかもしれないが、このような暴力は決して許されるべきではない。と気が付くべきだろう。

人間というのは簡単に割り切られたり、断罪されるべき存在ではない。

学歴とか年収とか仕事から一歩離れてみると、見えてくるものがある。

存在とは、何よりもまず、驚異なのである。

ちょっと強引にまとめてしまったが、たまにはそんな風に考えてみるのも悪くはないと思うのだ。