A Life With Adult ADHD

2014年にADHD持ちであることを確信し、2017年に自身のサイコパス属性に気が付いた一人会社IT社長のブログ

快適に人生をやり過ごすために。【皆さまのADHDブログ

「 コミュ力は「技術」ではなく、「経験」でしかない」 のか?

「コミュ力は「技術」ではなく、「経験」でしかない」というエントリを読んだが、同意できないと思った。

そもそも、技術と経験は相反する概念ではない。表裏一体であり、お互いに作用して高め合うような相互作用的な位置づけにある。

「技術ではなく、経験でしかない」というテーゼは、「包丁ではなく、食材でしかない」というテーゼと同じくらい意味不明だと思う。対立させること自体が、間違っているのだ。

技術なき経験は単なる慢心だし、経験のない技術などただの思い上がりである。

コミュ力は技術である。誰がなんと言おうとも。

「語る技」を試行して、その技術を高めるものなのだ。

経験はその技を測る試金石であり、素材でもある。ぬるま湯のような経験(素材)で満足していては、到底コミュ力の向上は見込めない

コミュ力という技術には、空気を読むセンス≒「聞く力」も含まれる。語る技量が付いてくれば、おのずと空気を読む余裕も付いてくる。そういうことだ。

などと断言してみたものの。

人によって、いろいろあるとは思うんだよなあ。byみつを

技術以前の人も、いるよね。あと少しなんだけど。

などと、しんみり思ったりもしつつ。

わたしのケースで言えば、技術は明らかに突破口であった。

大学3年生までは、まともに話が出来なかった。

男性に対しては、やたら嫌味で攻撃的。

女性に対しては、緊張してまともにしゃべることが出来なかった。

まさに針のむしろのような学生生活である。

そんな時、たまたまバイト先で馬が合った友人いた。

その友人の話ぶりが、実に面白かったのだ。

「なぜ、こいつの話は人を惹きつけ、笑いを取れるのだろうか」と感心しながら聞いていると、彼の語り方には2つのパターンがあるように思えた。

それは、模倣できるものだった。

一人で、リハーサルも出来たし、一人でネタを考えることも出来た。

そうやって一人でいる時はリハーサルをし、ネタを考え、人と話をする時は友人の真似をしているうちに、人と話をするのが怖くなくなったのだ。

やはり技術は大切である。

「面白い話」を語るための技術には2つあると思っている。2つで十分だ。

一つ目。ひどい目にあったことを面白おかしく伝えること。

ただ生きているだけで、人はしばしばひどい目に合う。だから、ひどい目に会った話は共感を得られやすい。

  1. まず、その「ひどい目」に合う手前までを、テンション高く、正確に語る。
  2. ここだ!という感じで「ひどい目」を描写する。
  3. 「いや、普通、そうじゃないでしょ?こうでしょ?」とあるべき姿を描写して「ひどい目」を際立たせ、同意を取る。
  4. 「ひどかったよ~」と訴えて、「マジ、大変だったね」と同意を取る。

二つ目。面白いと思ったこと、好きなことを、面白くおかしく伝えること。

悪口をダラダラ言われると、聞いてる方もイヤな気分がするものだが、好きなことや面白かったことを、いろいろな比喩を交えつつ、楽しそうに語られると、決してイヤな気分はしないものである。

自分が好きなもの、面白いと思ったことを、出来るだけいろんな比喩を使いながら、面白おかしく、語ること。

Tips的な要素として、比喩がある。

比喩だけで、笑いは取れるのだ。

森繁久弥がコップに水を注いでるような感じ」とか。

「イチジクを飲みこんだカエルみたいな顔」とか。

話を面白くする2パターンも、比喩も、孤独の中でも磨くことができる。無暗やたらに経験を積む必要はない。一人の時間、じっくり頭の中で、リハーサルしてよいのだ。経験を焦る必要などない。

技術を身に付けて自信が出てくると、空気を読む余裕も出てくる。

自分に自信が付いて来ると、オーラも醸されてくる。

人の話を聞く余裕が出てくる。実は、これが一番大事なことなのだ。

「当たって砕けろ」方式も、悪くはないと思う。しかし「技術を適用してみて、その反応から学ぶ」指針があればなお効率がいい。

経験とは、あくまで技術を試し、鍛える場でなければならない、などと思ったのだ。<エラソウ。